この度縁あって白泉画廊にて私の初個展『仙境—心の旅』展を開催することにいたしました。
開催にあたり温かいご理解とご協力を賜りました「くに作」石川康子氏に心より厚く御礼申し上げます。
さて「臥遊」という言葉があります。辞書を引くと、「横になったまま山水の画を眺めて、その地に遊んだような気持ちで楽しむこと」と記されています。
これは中国南北朝時代の文人・宗炳(375-443)が、居所の壁にかつて旅した山水を描き、画の中の大自然に心を遊ばせた故事によります。
また、宗炳と同時代の陶淵明(365-427)が表した言葉に「心遠地自偏」(心遠ければ地自ずから偏なり)とあります。心が俗界から遠く離れていれば、自ずと住む処もそのような場所となる。
つまり、“どこに居ようとも、自分の心がのどかであれば、自然と、目に映る景色、聴こえる音は、心に応じたものとなるんだよ”、 と。
よくお茶席に一幅の山水画を掛けるのは美術鑑賞のためではありません。画の中に入り込んで山中を駆けめぐり、気に入った場所でひと休みして過ごすため。
たとえ画が掛けられているところが騒々しい都会の一部屋であっても、自分の心が俗界から離れていれば、心中に広がる大自然の中で一碗の茶を頂くこともできるのです。
では、「積極的逃避」とは何でしょう。
社会の中でどうあるべきかを教える道徳。ところが、いざ社会に出たとき、しっかりと学んだ道徳を周到していても、その通りにはいかない現実が待ち受けています。
社会にまぎれて味わう理不尽、俗気、形式ばかりのおかしなルール、巧言令色、複雑怪奇な人間関係、心は儲けの計算に疲弊して… 残念ながら社会というところは“立派”だけでは通らないことを知る。
程なく社会に生きづらさを感じて、やむなく自身の率直な心情を外に吐露する境遇に陥ってゆく。
過去の文人たちは空想の世界にのめり込み、詩を作ったり画に描いたりして過ごしました。
しかし、それは必ずしも楽しい時間とはかぎりません。 時には現実の苦しさから逃れ、詩や画に逃げ込みその場を凌ぐことを術としたのです。
こうした文人たちの生き方に憧れ、真似事から始まる日本の文人趣味。江戸時代後期以降、中国の文人たちの思想や哲学に学び、彼らの表現する文学や芸術を深く理解し、やがて日本独自の文人趣味へと変化していきました。私は文人ではありませんが、文人たちの精神や生きざまに倣い、際限のない文人趣味のひとすくいを娯しむひとり。
普段は人に観てもらうことを目的に画を描くことはありません。自分がそこに逃げ込みたくて描きます。 画を描いているときこそ、私にとっては旅そのもの。旅に出ている間を楽しんでいます。
それはまさしく「自娯」の世界。陰陽を忘れられる「積極的逃避」のひととき。
筆に想いが乗っかると自然と筆が走り出します。下書きはしません。時間もそれほどかけません。時間をかけるほど心の中で見ている景色が薄まってしまいますから。あくまで即興、一気に描きあげる。
描く景色はどれも私が心を旅して巡った「心の景色」。内に現れた世界を写したもので、一般に写意画と呼ばれます。写意画の特徴としては、画より先に詩(言葉/思想・哲学/精神)があり、その詩が画と一体となって具象化されます。
不思議なことに、画の奥にあるもの、背景(ストーリー)を知ると、同じ画が最初の印象とはまったくちがって見えてきますよ。
たとえば、文人画(南画)では頻繁に瀧に向かう文人の姿を描きます。それは、じつは瀧を眺めているのではなくて、瀧の音に耳をそばだてて耳根を洗っている姿なのです。
社会にいると知らず知らずのうちに避けることのできない俗塵が耳に入り、それが垢となり耳根に溜まります。そうすると、ただ聞こえなくなるのではなくて、真偽を聞き分けることができなくなります。
しかしながら、この垢は耳かきでは取り除くことはできません。そうです、耳根を洗うには、山から生まれ出る水の音(真実の音)を聴くことで綺麗に洗い流すことができるのです。
古くも新しくもない秘境へ、あなたをご案内いたします。
画は“きっかけ”、ほんの“入口”です。どうか画の奥にあるものを感じとっていただければ幸いです。
それではごゆっくり「心の旅」をお楽しみください。